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地震の真相~情報拡散希望

転載: 米国ユダヤ人のみなさん、そんなに習近平が好きなら米国の大統領にしたらどうですか?

転載: richardkoshimizu’s blog 

米国ユダヤ人のみなさん、そんなに習近平が好きなら米国の大統領にしたらどうですか?    
作成日時 : 2012/02/14 16:53

http://richardkoshimizu.at.webry.info/201202/article_36.html





米国ユダヤ人のみなさん、そんなに習近平が好きなら米国の大統領にしたらどうですか?

江沢民派・好戦派・極東戦争にお付き合いいただける次期中国主席候補様の人気を高めるために、ユダヤ金融悪魔系列の洗脳大衆誘導新聞が、必死の礼賛記事。まるで金日成の白頭山伝説とそっくり。

「習氏は十代の頃、陝西省の農村地域で過酷な洞窟暮らしをしながら政治的視野を養い、権力を目指した。」

「習氏は、党エリートの血筋と大衆的感覚、泥臭い現実主義とを併せ持つ異色の存在だ。」

「今後10年間の米中関係に新しい風を吹き込んでくれるのではないかとの期待が両国の間で高まっている。」

「私の洞窟はやがて村の中心となった」「老いも若きも毎晩のようにここに集まり、新しいと思うことを何でも語り合った。次第に、地元の党幹部も仕事の話をしに来るようになった」

習が主席にならないと国家破綻が現実化するユダヤ米国さん。なりふりかまわぬ中国への内政干渉、ご苦労様です。習近平さん、あなたは(金に困っている)米国人の一部だけには愛されているようです。彼らの望み通り、極東戦争に火をつけてあげますか?

とても香ばしいお話:「1944年から1979年まで中国に暮らした元共産党員の米国人、シドニー・リッテンバーグ氏は、福建省長だった習氏に書簡を送り、米国の主要投資家らが損失を出していた発電プロジェクト契約の再交渉に手を貸すよう依頼したという。投資家らのコンサルタントをしていたリッテンバーグ氏は、自分は習氏の父と知り合いで、延安のダンスパーティーに一緒に参加したこともあると伝えた。すると習氏はリッテンバーグ氏の息子を夕食に招き、間もなく良い形で合意が成立したという。」

つまり、中国で事業に失敗したユダ金を省長だった習氏が救った経緯があったとのこと。随分前からユダ金と癒着していたようです。ちなみに米国共産党員=全員ユダヤ人です。リッテンバーグ?ユダヤ人です。習くらいになると金融ユダヤ人=中国共産党の生みの親くらいのことは知っていたのでしょうね。

●若き日の苦労が培った習近平氏の世界観
ウォール・ストリート・ジャーナル 2月14日(火)10時6分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120214-00000005-wsj-int

【中国・梁家河村】中国の次期リーダーと目される習近平・国家副主席が13日、米ワシントンを訪問する。習氏は十代の頃、陝西省の農村地域で過酷な洞窟暮らしをしながら政治的視野を養い、権力を目指した。

 毛沢東の文化大革命時、15歳だった習氏は他の数百万の学生とともに辺境の梁家河村に下放させられ、その後7年間をここで過ごした。

 この村で溝を掘り、豚糞からメタンガスを抽出する生活を送りながら、習氏は政治的キャリアを目指す決心をした―革命の英雄だった父・習仲勲氏が毛沢東に追放、投獄されていたにもかかわらずである。

 家族ぐるみの友人は、若い習氏の人格形成に大きな影響を与えたのは父親だと話す。父は習氏に、党の陰謀に関する内情や任務と特権の意義を教えるとともに、政治的エリートらとのつながりを持たせた。そのエリートの多くは今日、民生・軍事部門のトップの座にある。

 しかし習氏が鋭い自己認識を持ち、さまざまな階級の人々と付き合う能力を身につけ、一族の地位を取り戻すことに野心を抱くようになったのは、比較的裕福な都会生活から突然、厳しい農村生活に追いやられたためだと、友人は言う。

 習氏は、党エリートの血筋と大衆的感覚、泥臭い現実主義とを併せ持つ異色の存在だ。そんな習氏が厄介な集団指導体制に刺激を与え、今後10年間の米中関係に新しい風を吹き込んでくれるのではないかとの期待が両国の間で高まっている。現在58歳の習氏は、2007年に胡錦濤・共産党総書記の最有力後継候補として表舞台に登場した。以来、習氏が一族の歴史について公の場で語ったことはない。

 梁家河村の住民も習氏について話すことをためらう。本紙の記者が先週、同地を訪れたとき、彼らは質問に応じず、撮影も許可しなかった。間もなく警察が駆けつけ、記者は村の外に連れ出された。

 しかし別の場所では、大勢の家族ぐるみの友人が匿名を条件に習氏の過去について語ってくれた。彼らは、農村での生活が習氏の転換点となり、政治的野心の根源になったと一様に口をそろえる。

 エリート家庭の出身で、1968年に習氏と同様に農村に下放させられた友人の一人は、次のように話した。「私自身を含め、酒を飲んだりゲームをしたり、女の子を追いかけたりして楽しく過ごそうと決めた人間が大勢いた。その一方で、親に頼れないなら自分でどうにかするしかないと考え、リーダーシップの基本を学ぼうと努力した人間がわずかながらいた」

 この友人は、革命エリートの子どもたちが1950~60年代に比較的裕福な生活を送っていた様子を語ってくれた。当時、党は党員をいくつもの階級に分け、それに従い特権を与えていた。

 国営メディアは、習氏の父は非常に倹約家で、息子には姉のお下がりの服を着せていたと伝えている。

 とはいえ、習一家は党の最高レベルの階級に属していた。このレベルの人々は、北京の庭付き邸宅に暮らし、子守や料理人を抱え、ソ連製の自動車を乗り回していた。子どもたちはエリート学校に通い、外国の本や映画にも親しむことができた。

 彼らは、1958~61年の「大躍進政策」(大失敗に終わった農工業大増産計画)時代の飢饉で数百万人の命が奪われたときでさえ、食料に困ることはなかった。

 「彼らは中国の次期リーダーになると教えられていた」と、友人の一人は話す。

 しかし習氏の人生は1962年に一変した。毛沢東に批判的とみなされた本の出版を支持した父が、自宅監禁処分を受けたのだ。一家は小さな住居に転居させられ、公的な特権のほとんどを失った。

 1966年に文化大革命が始まると、学校は閉鎖され、学生たちは毛沢東率いる紅衛兵への参加を命じられる。だが習氏やその友人の多くは若すぎたため参加することができず、閉鎖された学校や図書館から借りたり盗んだりした本を読んで過ごした。

 「フランスやロシアの恋愛小説を読みあさった」と友人の一人は語る。ジャック・ロンドンやマーク・トウェインのほか、シャルル・ドゴールやリチャード・ニクソンの回顧録なども読んだという。しかしこの友人によると、習氏を含む一部の若者は、マルクスやレーニンを読んでいた。

 1968年には政治状況が悪化し、追放が広がり、紅衛兵は暴徒化した。毛沢東は同年、秩序回復を図るべく、再教育と称して学生らを農村部に下放させた。このとき多くのエリート層は、子孫が友人や親戚のいる地域に行けるよう手を尽くした。

 習氏は、軍事系の家系を中心とする20~30人の若者グループとともに陝西省延安の梁家河村に下放した。習氏の父はこの地で1930年代に共産党支持者の基盤固めに尽力したとして広く名声を集めていた。

 1年もたつと、グループの若者の多くが軍に入隊するため村を去った。習氏自身が2003年の論文でそう述べている。習氏はこの時期は「非常に孤独」だったと記しているが、この点も同氏と仲間を隔てる要因である。多くの若者は同じ都会出身の友人に囲まれて農村生活を送っていたからだ。村での生活を受け入れる以外に選択の余地がなかった習氏は、村人との交流を通じて自信を持ち始め、中国の現実を正しく認識するようになったという。

 習氏はこの論文で、「私の洞窟はやがて村の中心となった」と書いている。「老いも若きも毎晩のようにここに集まり、新しいと思うことを何でも語り合った。次第に、地元の党幹部も仕事の話をしに来るようになった」

 国営メディアによると、地元の党幹部らは習氏について、北京から持参した本を読みあさる勤勉な人物だったと評している。

 村に溶け込もうという習氏の努力が実を結んだのは、地元の党幹部の支援を受け、党員資格を取得したときだ―習氏にとって10回目の申請だった。幹部らはまた、同氏の清華大学への入学申請にも力を貸した。同大学は、自分の政治問題が息子の教育に影響すべきでないとの書簡を習氏の父から受け取った後、同氏の3度目の入学申請を受け入れた。

 卒業後、多くの同世代の若者がビジネスや芸術分野、あるいは欧米にチャンスを求めたのに対し、習氏は再び政治を志す。父の友人だった当時の副総理(後に国防部長に就任)の下で働くことを決めた。

 友人の一人が当時、習氏に動機を尋ねたところ、「これが自分の得意分野だから」と素っ気ない返事が返ってきたという。

 1982年、既に党の幹部職に返り咲いていた父の支援を受け、名誉ある軍の仕事を投げ打ち、養豚が盛んな河北省の県の副書記に就任する。

 2003年の論文で習氏は、「当時、多くの人は私の選択を理解しなかった」とし、この決断の理由は農村生活で築いた一般の労働者や農民とのつながりにあると説明している。

 だが一方で、これは賢明な政治的転身でもあった。党幹部の掲げる経済発展のスローガンの陰で、軍は急速に力を失いつつあったからだ。同時にこの動きは、軍で地位を得たのは革命指導者の息子という立場―いわゆる「太子党」―だからだとの批判を免れる上でも役立った。

 若い頃は自信過剰になることもあった。当時の知人によると、習氏は福建省廈門の副市長時代、党幹部の承認を得ずに次期市長候補に名乗りを上げた。

 処分を受けた習氏は、候補を取り下げ、より僻地にある寧徳の党職に異動することを余儀なくされる。しかし、すぐにまた出世街道に戻り、福建省長、浙江省党委書記を歴任し、ビジネス志向の人物として名声を確立するようになる。

 1944年から1979年まで中国に暮らした元共産党員の米国人、シドニー・リッテンバーグ氏は、福建省長だった習氏に書簡を送り、米国の主要投資家らが損失を出していた発電プロジェクト契約の再交渉に手を貸すよう依頼したという。

 投資家らのコンサルタントをしていたリッテンバーグ氏は、自分は習氏の父と知り合いで、延安のダンスパーティーに一緒に参加したこともあると伝えた。すると習氏はリッテンバーグ氏の息子を夕食に招き、間もなく良い形で合意が成立したという。

 「父親の人柄が習氏に伝わったとしか思えない。二人に共通しているのは、決して相手を困難に陥れるようなまねをしないことだ」とリッテンバーグ氏は語る。

 ビジネス路線を強めながらも、習氏はマルクス主義に強い関心を持ち続けた。1998~2002年には清華大学の通信教育でマルクス主義理論の修士課程を修めている。多くの党幹部が企業経営や経済学を学んでいた当時としては珍しい選択だった。

 だがこれも、自身の政治的思想の正当性をアピールし、「太子党」の誹りを免れる上で都合の良い手段であった。

 習氏が1997年に党中央候補委員に選出されたとき得票数が最も少なかったのは、太子党に対する反感があったことも要因の一つだった。しかしその10年後、次世代指導部のトップを選ぶ党エリートの投票で、習氏は最多得票を獲得した。

 10年間で状況が変わったのは、同じく太子党の曽慶紅・前副主席が、習氏が胡錦濤主席の推す候補者を抑えて出世できるよう画策した影響が大きい。

 しかしこれも、地域や思想、職業の違いを越えて人々と交流、協力できる習氏の類いまれな能力―若い頃に農村で身につけたと言われる人格―によるものだ。

 家族ぐるみの友人の一人はこう話す。「習氏はとてもバランスの取れた人物だ。誰に対しても報復など考えない。彼は大きな視点で物事をとらえ、あらゆる種類の人々と協力することを重視している」






   

by d451ddpp | 2012-03-06 21:37 | 情報拡散希望
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