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地震の真相~情報拡散希望

転載: 14.5.1高崎講演会のあと、徳川忠長の墓に詣でる機会のなかった方へ

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14.5.1高崎講演会のあと、徳川忠長の墓に詣でる機会のなかった方へ     作成日時 : 2014/05/18 19:02

http://richardkoshimizu.at.webry.info/201405/article_141.html






14.5.1高崎講演会のあと、徳川忠長の墓に詣でる機会のなかった方へ

代わりにお参りしてきました。

地元の方も知らない観光スポット。「硯箱、自刃に用いた短刀、自筆の手紙などが位牌とともに保存されてる。」そうですが、誰もいないし、勝手に入って勝手にお参りして出てきました。

徳川2代将軍、秀忠と江の方の息子。眉目秀麗、才気煥発で両親の寵愛を受け、長男、家光を廃嫡して忠長を三代将軍に押す動きが出た。危機感を持った家光の乳母、春日局が存命だった家康に直訴し、家康は「長幼の序」を重視して家光の世継ぎを決定。

忠長は駿河・遠江55万石の領主に封じ込められ「駿河大納言」に。世継ぎになれなかった鬱憤からか、家臣を理由もなく切り捨てるなどご乱心(したと実しやかに伝えられているけれど、真偽は不明)。将軍家光は、父、秀忠の死を待って、忠長攻撃を開始。不行跡を理由に55万石を取り上げ、高崎藩主で譜代大名の安藤重長のもとに身柄を預けた。

高崎城に幽閉された忠長に3代家光は切腹を命令。安藤重長が必死に取りなしたが、家光の命令は変わらず。忠長は、28歳で自刀。高崎駅近くの大信寺に今も墓が残る。入口には三つ葉葵の御紋が。

同じ両親から生まれた正真正銘の「弟」を遺恨から殺してしまった?徳川御本家と並び称されるほどの権勢を誇る駿河大納言の存在を徳川家存続の障害となると幕閣が判断したというの真相のようです。

さて、心配になったのは、安藤重長と子孫のその後。忠長に肩入れしすぎて、家光に疎んじられ、その後ひどい扱いを受けていないか?

重長の先代、重信は、関ヶ原の時は徳川秀忠軍の武将。(安藤家はもともと三河時代からの徳川家の宿将。)真田の上田城攻めに参加。大坂の陣後、高崎5.6万石の藩主に。(あまり出世していないのは、関ヶ原の戦いでは臣従する秀忠の評価が低かったこと、大坂の陣で安藤は戦に負けていることが原因か?)2代目の重長が、徳川忠長を預かるという役を引き受けさせられた。だが、結局、重長は書院番頭、寺社奉行、奏者番を歴任しているので、左遷されたという感じはしない。

その子孫も、備中松山6.5万石、美濃加茂6.5万石など転封されながらも存続。奏者番、寺社奉行などに就き、8代吉宗の時には老中に。安藤家5代の時に暴君が現れ幕府大目付に密告されて磐城平藩に移封。その後も老中などを輩出。(第10代の信正は、幕末に公武合体を進めた徳川幕府老中。)結局、明治までお家は存続。第12代、.安藤信勇は明治期には学習院教授。子爵。子孫の第16代信和は、立教のアメフト出身、アメフト協会の元理事長。存命だというから、94歳?

お取り潰しとかになっていなかったので、なんだか、ちょっとほっとしました。

あと気になるのは....忠長の子孫なんだが、子孫は残していませんでした。断絶.....それと、忠長の家来たちの運命は?浪人?どなたか知っていたら教えてください。




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by d451ddpp | 2016-05-28 23:18 | 情報拡散希望
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